ニートが努力できない3つの理由 「幼い」んだよコピペへの反論

ニートが努力できない3つの理由 分類

 掃除に筋トレ、資格の勉強、そして就職活動。身の回りには選択肢があふれている。

 そして僕らは一番楽で楽しいものを選ぶ。いつしか、選択肢も見えなくなり、選ぶことさえなくなる。

 海の向こうにアメリカがあって、そこにニューヨークやワシントンがあるみたいに、言葉には聞いたことがあるものに変わっていく。

 そうやって遠くにいってしまうのは、努力が必要なものばかりだ。一番つらくて楽しくないものから遠くへ行く。

 「一生アメリカ行かないだろうな」というのと同じように「一生就職しないだろうな」という感覚が日に日に芽生えていくのだ。

 そしてこれらは周囲の人々からは単なる思い込みだと思われがちだけど、本人からするとヒヤリとする実感があって、とうてい思い込みとは思えない。

 それに実感はだんだんと目に見えてくる。とうとう周囲の人にも見えるようになり、思い込みじゃなかったという安心感と劣等感に苦しむ。

 当事者として僕は「ニートは努力できない」ということをただの思い込みとしたくはない。かといってこれを事実だと認めたくもない。

 こういったときに「人による」という結論を出すのは簡単だ。きっと”人によって”は参考程度になるだろうし、決めつけにもならない。

 しかし、今回に限ってはもう少し考える。

 どうしてニートは努力できないのか。

努力とニート

 まず、なぜニートと努力は紐づけられやすいのだろうか。

 なぜ何もしようとしないのか。

 なぜすべてが面倒くさく感じるのか。

 実はこれらの疑問は、「努力」とはなにかということをニートが独特なとらえ方をしているために生まれている。

 人とは違う存在であると、人とは違う考え方を持つ。

ニートにとって努力とは人と差をつけること

 世間一般的に努力とは「自分を高めるもの」「願いを叶えるためにすること」「目標を達成するためのもの」多くの人がこういう風に考えているだろう。

 そこをニートは「人と差をつけるためにすること」という風に考えている。

 比較すると、前者は物質的なもの後者は精神的なものだ

 なぜニートは「努力とは人と差をつけるためにすること」として精神的なものを求めるのか。

 それは物質的に豊かな暮らしをしているからだ。それは家庭だけでなく、時代にしてもそうだ。

 すでに身の回りの物質は十分に足りている。食べることに困らない、娯楽もあふれている。 

 つまり、物を得るのに努力する必要がない。ここに努力に対する認識の違いが生まれている。

 そうして考え方が物質的から精神的に変わる。つまり、努力とは物を得る手段ではなく、精神的な満足を得る方法だという考えになる。

 さらに精神的な満足というのは誰かと比べなければ、はっきりしない。

 それを過去の自分とするのも手だけど、最も効果が高くなるのは誰か他人と比べた時だ。つまり優越感こそが最も精神的満足にふさわしい。

 近年、”マウント”という言葉が流行っているのも同じ理由だ。誰しもが人との差を気にしている。

 こうした努力の捉え方からして違うことによってニートは物質的な努力をしないのである。これが1つ目の理由だ。

差をつける人が身の回りにいない

 物質的な努力をしないのであれば、精神的な努力をもっとしていけばいいと思われるけど、それも難しい。

 なぜなら、身の回りに差をつける人が少ない、いないからだ。

 ニートの少ない人間関係を数えるのには片手の指で足りる。

 そんな中では差をつける相手もいない。

 だから「あいつよりも……」みたいな競争心が生まれない。

 これがニートが努力できない2つ目の理由である。

 これは競争の激しい環境にいる人から見れば、甘えているようにしか見えないけど、よく考えればそんなことはない。

 生物が天敵のいない環境で独自の進化をするのと同じことだ。いわばガラパゴス諸島にいるのん気な生物みたいなものである。

 使うどころか見せる機会もないのに、どうして筋トレをしたり、英語の勉強をする必要があるのだろうか。

優越感は偽物か

 そしてさらに複雑になるのが、そもそも優越感がはたして人間に必要かという点だ。

 たしかに優越感は自然な感情の仕組みとして人間の心に存在する。

 しかし、それを生理的なものとして、なるべく取り払っていっても問題はないんじゃないだろうか。

 例えば、SNS。よりかわいい自分の自撮りを挙げて、競うように流行りものを取り込んでいく……それは楽しいことは楽しいだろうけども、おそらく本人も心のどこかは疲れているはずだ。

 第一、人より優れようなんていう気持ちには限りがない。

 どんなにお金を手に入れようとも、もっとお金を持っている人がいる。人より良い服を着ようとも中身のさびしさは埋められない。

 そして自分より下がいる安心感ほど醜いものはない。一生自分に極大の不幸が起こらないという勘違いをしている。

 つまり優越感を感じるための努力というのは中身のない結果しか生まれない。全くする必要がない。これが3つ目の理由だ。

苦労をするかどうかで幼稚かどうかは決まらない

 有名なニートコピペに「『幼い』んだよ」というのがある。

 その他のコピペにも共通するのが、「幼い」という言葉。

 たしかにニートは幼い。子供じみているかもしれない。

 しかし、それは苦労をするのが大人という定義で考えた場合の話だ。

 人間、苦労するかどうかでは幼稚かどうかは決まらない。

 では何をもって幼稚とするか。それはこちらの記事で自分なりに考えてまとめたのでぜひ読んでほしい。→大人と子供の違い、境界線はどこにある?

真の努力って?

 物を得るために努力もしない、精神的な努力もしない。じゃあ一体いつ努力するのか。

 これはただの幻想だけど、本当に人間が求めるものは世間や小さい感情とは関係のないところにあるんじゃないか。

 例えば、人間が弾ける限りの最高の音楽を弾く人は、自分が最高の楽団にいるとか、人より演奏が上手いとか、そんなことはほんの少しも考えないだろう。

 きっとどんな人間にだってそういう瞬間があっていいはずだ。それに向かう力こそが努力なんじゃないだろうか。

 たとえそれが遠回りでも。

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