他人の不幸は何の味か?

人間関係
他人の不幸は何の味か?

他人の不幸は蜜の味 

 気まぐれに棚を掃除していたら本かなんかに挟まっていた壇蜜のDVDがポロリと出てきた。その本の特集では壇蜜がポロリしていた。

 ずっと家にいる僕の生活は基本的に幸も不幸も起こらず、例えるならプレーンヨーグルトみたいなもんである。だから、壇蜜が棚からポロリするようなちょっとした幸ですら、結構な刺激だ。

 逆に不幸にも関心がある。嫌いな奴が痛い目に遭ったら嬉しく思うし、常々、こけろ!と思っている。昔、イヤホンしてスマホをいじりながら自転車に乗っている奴が前を走っていて、こけろと念じたら、丁字路のところで車に轢かれた。僕は「うそだろ!」と思いつつ現場をスーっと通り過ぎたけど、やっぱり心の中では嬉しく思っていた。

 こういう人の不幸を喜ぶ心理は、道徳的じゃないとして否定されがちだけども、あって当然のものだと思う。確かにそのチャリ男がその事故で死んでしまっていたら僕は喜ばなかったかもしれないし、喜んだとしたら喜んだ自分を恥じただろう(それに念力で人を殺したという罪悪感に苦しんだに違いない)。しかし、それを言ったら、死ななければいいのか、とか、骨折はセーフとか、歩けなくなるのはアウトとか、線引きがあればいいということになるし、非道徳的だという人は、その線引きが自分と他人で違うだけだと認めるべきじゃないだろうか。

 蜜の味は蜜の味でいい。似たような言葉に「メシウマ」というのがあるけども、どちらもこの心理を「食」で例えている。つまり、それだけ他人の不幸は人間の本能的な欲求であるということだ。

お前それサバンナでも同じ事言えんの?

 食に関してサバンナのライオンがシビアなように、僕らも人間としてこの他人の不幸は何の味か?に向き合わなければいけない。「絶対に人の不幸を喜んじゃダメ」「こんなかわいそうな目に遭って本当にかわいそう」「代われるものなら代わってあげたい」というような極端な同情は、「動物はあなたのごはんじゃない」というのと同じことだ。

 この世には不幸が溢れている。不幸の代表として挙げられるアフリカの子供たちはたしかにこうしている今も飢えて死んでいる。これは喜びようがないと思うかもしれないけど、実は「日本に生まれてよかった」という言葉の陰にその喜びが潜んでいる。日本に生まれてよかったと思う人は、間接的に世界の不幸を喜んでいるのだ。

 だから他人の不幸が蜜の味なのはしょうがない。こんなことは言いたくないけど、強い正義感の持ち主が不幸な人々を助けに行くのは、蜜の香りに誘われているだけなのだ。

個人的な思い

 サバンナになにか一つ持っていくとしたら、僕はこのDVD付き壇蜜の特集本を持っていくだろう。貧弱な僕がナイフやら火打石を持って行っても生きていける気がしない。食べるか食べられるかの世界では、完全に食べられる側だろうから、食べられるまで茂みで特集を眺めて過ごそうと思う。

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