僕の心を何にたとえよう ゲド戦記の思い出とテルーの唄の考察

ゲド戦記 テルーの唄 アニメ

 小学生低学年の時、僕は家の中を歩き回っては「ドラえもんが読みたい!」とばかり言っていた。理由は不明だけど、とにかくドラえもんが読みたかったのを覚えている。

 ある日、とうとう父が書店のポリ袋を提げて帰ってきた。

 その袋を逆さまにすると、ゲド戦記1巻2巻3巻が出てきた。

(あれ? これはドラえもんじゃないぞ!)と思ったものの、

 初めて箱に入った本というのを見た僕は、それがとんでもなく高級なものなんだと思い、もったいない精神で読み始めることにした。

 読んだことがある人には分かると思うけど、ゲド戦記は低学年が読むにしては内容が難しい。

 小学生の僕は、漢字は飛ばしてひらがなだけを読んだ。

 そんなものだから、物語の途中である登場人物がいなくなっても、僕は全く気が付かなかった。

 また、当時はまだ映画が公開されておらず、そのため誰もゲド戦記のことを知らない。

 誰かとゲド戦記の話で盛り上がることもできず、僕の幼少期はただゲド戦記のひらがなを読破しただけに終わったのだった。

 時は進み、ゲド戦記やドラえもんのことが頭から忘れ去られたころ、ゲド戦記の映画が公開された。

 映画・ゲド戦記は、スタジオジブリの宮崎駿監督の息子、宮崎吾朗監督が監督・脚本を担当し、制作された作品だ。

 この映画が上映された当時、原作者や監督の強すぎる思いが交錯し、その作品性の相違を巡っていざこざが起きたり、波紋を呼んだらしい。

 当時、このことを僕は知らなかった。

 なぜならこの映画がDVDとなり、次いで日テレの金曜ロードショーで放送されたのを観て、僕はゲド戦記が映画化されたことを知ったからだ。

 その時には、ひらがなを読破したことも忘れ、「ゲド戦記? なんか聞いたことあるな」と思ったくらいで、

 まだまだバカだった僕はその映画を観ても「お、ドラゴン出てきた」という風にしか楽しまなかった。

 そうして僕のゲド戦記人生は、「これはドラえもんじゃない……」から始まり、「お、ドラゴン出てきた」で終わった。

 しかし、(ここからが本題)

 映画・ゲド戦記を観てから今日に至るまで、ずっと心に残っているものがある。

 それが「テルーの唄」だ。

手嶌葵 – テルーの唄

 歌:手嶌葵 作詞:宮崎吾朗 作曲:谷山浩子 編曲:寺嶋民哉 参考:萩原朔太郎「こころ」

 歌詞 http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B17197

 テルーの唄はゲド戦記の劇中挿入歌なんだけど、これが、

 めちゃくちゃいい曲。

 心が洗われる。

 一度聴いて以来、ずっと心のどこかにこの曲が浮かんでいる。

 何度聴いても初めて聴いたときと同じくらい感動する。

 そして勝手な想像だけど、この曲は、

 強く生きる人の心のさびしさを歌っているのだと思っている。

 だから、この曲は好きな曲ではあるけれど、自分の曲ではない。

 なぜなら、僕は弱い。

 ”空を舞う鷹”や”雨に打たれる花”というのは強く生きる人の心の例えだ。

 僕は弱い人間なので、この曲は寂しさや悲しさに共感する曲ではなく、「こうでありたい」という模範の曲だ。

 この解釈をする人は多いと思う。

 そして、「あれ? こころってなんだっけ?」という自分なりの疑問を持つ。

 鷹ではないし、花でもない。

 例えるのなら、なんだろう。

 みんな、そんなことを考えながら歩いている。雨の日とか特に。

 例えるのなら

 僕の心は、豆腐。

 めっちゃ弱い。

 言いたいことも中々言えないし、すぐ人に押しのけられる。

 ボールが回って来ても、すぐに誰かにパスしてしまうし、そうすると段々回ってこなくなる。

 相手が間違えていても、「すいません。僕が間違えてました」とか言っちゃう。

 弱気すぎて人とうまくいかない。

 そうして独りでいるようになる。

 でも、それはさびしいし、悲しい。

 そんなときに自分は一羽の鷹なんだと思えたら、どれだけいいだろう。

 テルーの唄はそういう風に思わせてくれる曲。

ゲド戦記 テルーの唄
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