写真は撮ったほうが良いのか撮らずに目に焼き付けるべきなのか

生活

 現代では、スマホやSNSの影響から誰しもが手軽に写真をとるようになった。

 勝手なイメージだけど、特に中高生や主婦がそういうのに凝っているイメージがある。

 おしゃれな料理とか、タピオカドリンクとか、犬や猫、きれいな海、いわゆる”インスタ映え”というやつだ。

 個人的な印象だと、ほんの少し前まではそういうのをちょっと小馬鹿にするというか、「景色や思い出というのは目に焼き付けるものだ」という風に考える人が多かった。

 僕もどちらかと言えば、写真は撮らない派で、心に残してこそ意味があるというような根性論者だ。

 しかし、最近はそういった人々も順応したり、寛容になったりしたのか、その数も減っている気がする。

 おそらく今、芸能人なんかが「何でもかんでもパシャパシャ撮るんじゃない」と言ったら炎上するだろう。それだけ何でも写真を撮る派は増えてきている。

 そんな今だからこそ考えたい。写真は撮るべきか目に焼き付けるべきか。

 単純にメリットを考えるとするのなら、

 ●写真を撮る……後で思い出しやすい、他人と共有できる、いいねがもらえる、創意工夫が楽しめる

 ●目に焼き付ける……なんかかっこいい ライブ感

 実用的なのは、圧倒的に前者、写真を撮ったほうが、後々に良いことがたくさんある。

 写真を撮らなかった場合は、その場にいなかった誰かに正しく伝えるのは難しいし、年月が過ぎるほどに、記憶は形を変えていく。

 それをアンティークだとかヴィンテージだとして良いことだと考えられなくもないけど、そこまでいったらハードボイルドすぎて身の丈の合わない。

 唯一目に焼き付けることの利点があるとすれば、その場の空気を大事にできることだろう。

 写真を撮るという行為は人間が本来切り取ることのできなかった時間を機械によって一つの形として封じ込めるという意味合いがある。

 1つの時間を生きる者として大それた行為、傲慢な行為と言えなくもない。

 また、食べ物や動物園などはまだしも、海や山のような荘厳な景色を撮るのは、本来人間がどうしようもないものを封じ込めてしまおうという思い切った行為と考えられなくもない。

 だから目に焼き付けるというのはそういったものへの無抵抗の証明だったり、敬意の表れなのかもしれない。

 例えば、憧れの人を目の前にしたときに、ツーショットやサインを求めるのではなく、ただ目の前にいるということをしっかり目に焼き付けて実感するようなことだ。
 
 正直、こんな感覚は古臭く、説教臭いかもしれない。特に中高生にとっては。

 でも、そんな中高生もいつかは、こういう目に焼き付けるという敬意を知るんじゃないかと思う。

 そして、根性論者の方も、日常の思い出を共有することの良さとか、日常生活の創意工夫の楽しさを知っていくべきなのかもしれない。

 だけど、正直youtubeやtwitterならまだしも、tiktokやinstagramというのについてけない。

 今までわりと最新のものを受けいれてきたつもりだけども、とうとう年をとったのだろう。

 もう中高生でもないし、最新を受け入れていく必要もないのかもしれない。それにもともと祭り行事は遠くから見るタイプだから。

しかしそれでも、一応世間から完全に孤立しないように、いつでも参加できるように準備くらいはしておいたほうが良いのではという気がする。

 そうして人はtiktokやinstagramをインストールするのだろうけど、そうしたときに一気にスケベ感が増すのはなぜだろうか。

 そこそこの年をいった人が若者系のアプリをインストールすると、なぜかスケベ感がある。なぜか。

 別にスケベな目的はないはずなのに。こうして新たな問題にあたるわけだけど、おそらくこれは目に焼き付けるという癖が残って、画像を目に焼き付けてしまい、変態感があるからだろう。

 それに一説には、目に焼き付けるという言葉は、当時高価だったカメラを買えなかったスケベが悔し紛れに言ったのが語源らしい。

 だから盗撮魔なんていうのは二流のスケベで、一流のスケベは目に焼き付ける。僕はこれを肝に銘じて生きて行こうと思う。

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