やらせや嘘松が目立つ時代

やらせと嘘松 生活
やらせと嘘松

 近年、やらせや嘘松という言葉が取り沙汰されることが増えてきた。こうも注目されているのは、嘘が目立つ時代になったということだろう。

 ここで疑問なのはどうして目立つようになったか、ということだ。インターネットの普及で情報の伝達がはやくなったから?「うそはうそであると見抜ける人」が増えたから?それも一つの理由としてあげられるだろう。

 しかし、僕は最も大きな要因として、その嘘の性質が昔とは異なるものになっているからだと考えた。具体的な例を混ぜてまとめてみた。

嘘も方便

 「嘘も方便」ということわざがある。どうみても具合が悪くなっていく人に顔色が良くなったと嘘をつくだとか、致命傷を負って死ぬ間際の兵士に全然たいした事ねえ、お前はツイてるなと言うだとかいう状況を肯定する表現だ。

 これは相手のためを思ってのものならば嘘も許されるという意味だけど、もっといえば人のためになる嘘は良いものだ、ということになる。

 反対に、良くない嘘は「人のためにならない嘘」「思いやりがない嘘」と言ってもいいだろう。そしてこういった良くない嘘が増えてきたために嘘が目立つようになったのではないだろうか。

やらせ

 例えば、やらせに関して。昨年の11月、世界の果てまでイッテQ!が5月20日放送した「ラオスの橋祭り」がでっち上げ、捏造なのではないかという疑惑が浮上し、大騒ぎになった。ここに足りなかったのは現地人の文化を敬う気持ち、テレビマンとして最も重要な「報道は事実を曲げてはならない」という規律を守ることだった。

 つまり、「まあ、バレねえだろ。適当にこんなんやっとけばあいつら笑うから」という視聴者をナメた態度が良くなかった。

 多少の演出くらい許すべきだ、出なければ規制まみれで面白くなくなるという人もいるが、それはその通りである。つまりやらせと演出をわけて考えるべきだということだが、僕はその区別にこの「嘘も方便」の精神が必要だと思う。

嘘松

 次に嘘松について。この言葉はtwitterなどにまるで嘘だと思われる内容を投稿して承認欲求を満たす人に使われる言葉だ。

 これに関してはとても単純な話だ。このような嘘には人を楽しませようという気持ちがまったくなく、自分のことばかり考えているのがまる分かりなので、うすら寒い。そしてその自覚が本人にないことが恥ずかしく、変に目立つのである。

 どうしてこのような嘘が増えたのか。実は嘘自体は増えたわけではないように思える。「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」という言葉が代表するように2000年代にも嘘はネットに蔓延していた。

 当時にあって現代にないのは、人を楽しませる気持ちもそうだけど、sns独特の匿名性にある。ここでいう匿名性は、テレビのワイドショーで言われる本人の身元が分からないという意味ではなく、むしろ掲示板などの完全匿名性に比べて、匿名性が低く、一個の人格が独立している、仮想的な人間ができているという意味である。

 つまり、やたら派手な仮面をした愉快犯みたいなもので、スべっているのに本人が得意げになっているのが、悪目立ちの要因なのである。

個人的な思い

僕はニートなのでよくテレビを見る。とくにドッキリ番組が好きだ。仕掛けられている側が「あ、これどっきりだな」と分かって「なんか面白いことしなきゃ」と緊張して顔が引きつっていたり、やたら水を飲むような多少の目立ちはそれはそれで楽しめるけど、どう見てもカメラマンがいると分かるマジックミラーロッカーとか、ラベルを剥がしたペットボトルが並んでいたりすると冷めてしまう。

 水曜日のダウンタウンなんかは、やらせの使い分けが良く出来ていて面白いと思う。ドッキリのどうしてもやらせが滲み出てしまうのを逆に企画や編集に組み込んでいて、僕みたいなひねくれ者でも楽しめることができる。それになんやかんやでイッテQ!も観てるし。テレビ業界の人は規制の波やネットの台頭に負けず頑張ってほしいと思う。
 

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