結局学校に行ったほうが良いのか行かないほうが良いのか

学校に行くべきか行かないべきか 生活

 僕は今でも学校であった出来事をたまに思い出す。

 思い起こせば、良いことも悪いこともあった。でも、ほとんどが悪いことだったな。

 なにかをねじ込まれたり、逆に僕自身がなにかにねじ込まさせられたりした。

 なんかそういうブームがあったのだ。僕はそのブームに巻き込まれはしたけども、ブームに乗ろうとはしなかった。

 学校というのは、ほとんどノリでやっているようなところで、教師でさえ、教師のフリをしているだけで、別にノリが悪いわけじゃない。

 そんな場所で、僕のようなノリの悪い人間はやっていきづらい。

 だから、僕にとっては戻りたくもない場所だ。もし、タイムマシンで連れて行かれそうになったら、めっちゃ柱を掴んで抵抗する。

 しかし、あの学校時代がなければ、今の僕はいない。もしかしたら、今よりも明るくて素晴らしい人間になっていたかもしれないけど、そんなのは自分でないし、嫌だ。

 今回はそんな学校について、行くべきかどうかを考えたいと思う。

学校には行くべきではない

 なぜ、学校に行くべきでないのか? それはそこにいじめがあるからである。

 僕が思うにいじめのない学校なんて存在しない。もし「私の学校はいじめがなかった」という人がいたら、その人はそうとう幸せな学校生活を送ってきたのだろう。

 いじめのおそろしいところはどうしようもないところである。

 正確には、いじめというものは、それをどうしようもない人に限って行われるのだ。

 いじめをどうにかできる人にはいじめはやってこない。いじめられるのは決まって、そのいじめに対してなにをどうしていいか分からない人だ。

 だからどう考えたって解決法は見つからない。

 手本になるべき大人の世界でさえ、 パワハラにセクハラ、ありとあらゆるいじめにあふれているのだから、学校のいじめ問題が解決されるのは、何世紀も先の話だ。

 だから、いじめられて苦しむくらいなら、行かなくていい。耐える必要もないし、立ち向かう必要もない。

 漫画の主人公のように闘う必要はないのだ。なぜなら、漫画の主人公なんていうのは、初めから勝つことが決まっている。八百長みたいなもんである。

行けたら行く

 この「行けたら行く」という言葉はとても便利な言葉だ。日常生活の約束事に対して、使うと「どうせ来ないくせに」とツッコまれてしまうけど、最初から「行かない!」と言うよりは穏便に済む。

 本音と建前の精神である。心の中では学校に行かないと思っていても、態度だけは行く雰囲気を醸し出す。

 ここで重要なのは、実際に学校に行くかどうかではなく、行こうと思えば行けるという心の余裕を持つということだ。

 やろうと思えばやれるんだという自意識が生まれて、孤独な人間にありがちな「自分は何者か」という疑問の参考になるだろう。

 この自意識は時に過剰になり過ぎて、全能感につながることもある。そうなる前に、定期的に「どこまでやれるか」を実際に試すとより良い。

 全能感について詳しい記事はこちら

 試食コーナーに行くような気持ちで学校に行けばいいのだ。駄目だったら駄目で良いし、良かったのならまた行けばいい。

自分自身を保つこと

 学校を休むと、しばらくは「ゆっくり休みなさい」と口々に言われるけど、一か月後くらいに「そろそろ学校に来たら?」とか「行ったら?」と言われる。 

不登校というのは、そんなバカンス感覚で休んでいるわけではなく、「よし、そろそろ行くか!」とはならない。しかし、世間一般は大体学校を休む期間は1か月くらいというのが共通しているらしい。

 一番大事なのは、学校に行くか行かないかじゃない。自分が自分でいれることだ。

 だから別に無理に行く必要はない。想像するだけでいい。

 「どんな自分が学校に行くのか」「他人から見た自分はどんな自分なのか」を想像して、自分自身を知る。

 そうしないと自分で自分が分からなくなって、不格好な透明人間みたいになってしまう。

 想像した自分ががどんな自分であれ、自分は自分だと受け入れる。悪く言えば、開き直る。完璧な人間なんてこの世にいない。それでいいと思う。

 大人と子供の違いについての詳しい記事はこちら
 

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