令和とニート

新元号「令和」を迎えたニート 歴史
新元号「令和」を迎えたニート

 今やニートは全国に100万人いるといわれている。僕もその一人だ。

 世間が改元を迎え、10連休という破格のゴールデンウィークがそこに被ったということもあり、日本全国が祝賀ムードに包まれている。

 僕らニートはそんな中、ひっそりと新元号、令和を迎えた。この”ニートとして元号を跨ぐ”というのは、かつての歴史の影において何度も行われてきた。

 昭和から平成の時もそうだし、大正から昭和もそうだ。同じようなニートが、同じように元号を跨いだ。

 時代は違えども、そこには何十年に一度咲く花のように特殊な出来事が共通しているのである。

 世間が浮かれている今だからこそ、僕らはその行為の連続性、様式、元号ごとの独自の意味を考えなければならない。

 特殊な感情について

 まず、元号が変わった途端に、誰しも何かさっとした感情を抱いたんじゃないだろうか。

 根拠のない期待感のようなもので、何日か経った今、なんだ結局変わらないじゃないかという日常に消えていってしまったもの。

 ニート生活に慣れた人ほど、この期待感を感じ取ったと思う。なぜなら、この生活が長いと期待感なんて言うものは、余計なものであり、不必要な感情であるからだ。どうせがっかりするに決まっている、期待するだけ無駄だ、と日々心得ているから、期待感の芽は早々に感じ取って摘み取ってしまう。

 どんな時もそうだったと思う。明治から大正、大正から昭和、昭和から平成。何か変わるんじゃないか、パッとしないこの生活に何か起こるんじゃないか、そういう期待と、結局日常が戻ってきたときの落胆。

 平成初期においてそのギャップは、事件につながっていたように思う。犯罪ほど、人生に変化を起こすものはない。被害者も加害者も一生その事件が心に残る。大犯罪の陰、無意識の思い出には、時代への期待と裏切りという特殊な感情があったんじゃないだろうか。

 様式について

 結局、暗さが戻ってくるのであれば、初めから期待しなければいい。改元の瞬間、その後の日常も、切腹する侍のように、堂々と迎えるべきだろう。

 そもそもニートという無職業柄、行動というのは何よりも苦手だ。僕なんかはコンビニにすら行かない。

 そんなものだから、自分から何かするのではなく、何か起こるのを待っている。だからこそ、こういった改元に対する期待感が大きくなってしまうわけだけど、この受け身スタイルが様式な以上、より良いものにしていくべきなのだ。

 まず、徹底的に期待はしない。世間にもそうだし、他人にもそう。ニートは、他人に流されて生きてきたような人が多い。僕も、顔色ばかりうかがい、へいこらして生きてきた。だから、他人に何か望む気持ちは少ない。

 これはある意味究極のエゴイズムだ。球技をしたら、すぐに他人にパスしてしまうような僕らだけども、エゴイストの素質があるのだ。

 もう一つ重要なことがある。それは、他人に期待しないのと同時に、理解を持つことである。

 他人は僕らを理解しない。僕らは、その理解しないことを理解するのである。

 これはある意味、期待しないのと同じである。他人に優しくして貰おうと期待しない。

 さっき言った切腹する侍と同じで、自分を救えるのは自分だけなのだ。

 元号独自の意味

 感情や様式は、歴史に共通しているけど、元号の意味合いは独自だ。

 例えば、昔はかなり裕福じゃないとニートではいられなかった。高等遊民という言葉がまさにそれを表現している。

 明治、大正のニートに必要だったのは、教養とプライドだった。それは夏目漱石の「それから」などを読むと分かる。

 平成においては、自虐、開き直りだった。「働いたら負けかなと思ってる」に代表されるように、自分の存在を客観視する理解力と身を守るユーモアが必要だった。

 では、令和において必要なものは何か?

 これはそのうち分かればいいなと思うし、ひとそれぞれの答えがあったらなんだか嬉しい。

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