一生社会復帰しない方法

一生社会復帰しない方法 就職
一生社会復帰しない方法

必要のない不安

 ニートとなった人々が共通してハッとして気づくことがある。これはおそらくほとんどのニートが気づくだろうし、社会人は定年になってから気づくか、もしくは死ぬまで気づかない人もいるかもしれない。それは、保育園や幼稚園、小学校に入って以来、ずっと組織の人間であり、どこにも属さない人間となったのは、10年、20年ぶりだということである。

 考えてみれば、当たり前の話でたいしたことではないと思う人もいるかもしれないけど、これには当事者にしか分からない衝撃がある。その衝撃は大抵、スタートをきった初日や3日後にやってくる。思わず自分の存在を疑う。ここにいるということを他人が誰も認識しないのであれば、もしかしたら自分は存在しないということと同じなのかもしれないとか、いや待てよ、「我思う、故に我在り」だから僕がいると思えば僕はいるんだ、とか訳の分からないことを考えてしまう。

  しかし、こういった混乱は1か月もすれば、どこかへ消えて行ってしまう。単純に慣れである。疑う余地もなく、日々、ゲームやtv番組に熱中し、季節が変わったことにも気づかなかったりする。「われ思わない、故に我なし」状態である。

 そのどこかへ消えていった混乱が再びやってくる瞬間がある。それが「社会復帰」だ。実際にする気はなくとも、ちょっと、してみるか、ということを考えてもいいかな、明日から、くらいの程度でも混乱は現れる。社会は再び僕を認識してくれるだろうか、という不安が巻き起こる。つまり、「社会復帰」というのは世間が僕らを再認識してくれるかどうか、ということなのである。

 思い直せば、ある程度、社会は僕らを認識している。厚生労働省は毎年統計を取っているし、それなりに無業者への政策を打ち出している。また、ニートといえども消費税は払っているし、親の金を経済に回している。これは褒められたことでも、誇ることでもないけど、全くの無価値というわけではない。社会がオギャアと生まれた瞬間に僕らに結び付けた紐はちょっとやそっとでは断ち切れないということだ。

 こうなると社会復帰という行為は意味合いが変わってくる。社会復帰希望者の抱く、社会が自分らを認識していなくて置いて行かれている気がするという不安は必要のない不安だということになる。切羽詰まった人は気休めだと思うかもしれないけど、そういう人のほうがこの社会のつながりの強さを知っているはずだと思う。なぜなら、社会のつながりはどんな山奥にも伸びていて、人々は死ぬことでそれを断ち切ろうとしたわけだから。

模索するということ

 そういった広義的なつながりが国が滅亡しない限り存在すると分かったら、一生社会復帰しないという手を考えても悪いことではないと思う。何をしようとも社会の手の中にあるわけだから、死ぬことを除けば、あえて自分は社会復帰してやらないと主張するのは何の問題もない。

 そうして一生社会復帰しない方法の模索が始まるのだけど、中々見つからない。「株 儲かる」とか「仮想通貨 儲かる」と検索したり、なぜか脳内で田舎の畑を耕し始めたりする。perだのpbrだの訳の分からない専門用語に頭が混乱し、脳内の畑は、近所の人に除草剤をまかれ枯れてしまう。

 世の中には社会復帰する方法は溢れているけど、一生社会復帰しない方法は数少ない。検索しても出てくるわけがない。だからと言って死んでしまうのは、社会復帰をすることと同じくらい安易な行為だ。もちろん、これは「死ぬのは簡単だ」ということを僕は言っているのではない。死ぬのが簡単なわけない。そういうこと言うやつには、じゃあお前がやってみろよと言いたい。僕が言いたいのは一生社会復帰をしない方法を模索するべきだということだ。

 こう言うと、今度は、じゃあお前一生社会復帰すんなよ、と言われてしまうかもしれない。確かに一生社会復帰しないなんて、難易度が高すぎて無茶な話だろう。それはごめん。でも誰しも人生の最中に一生社会復帰しない方法を考える時期があってもいいんじゃないだろうか。

個人的な思い

 未だに一生社会復帰しない方法は発見されていない。もし発見されれば、ニート業界に衝撃が走ることだろう。なんかしらの賞がもらえてもおかしくない。僕が個人的に許せないのは、見つかったとホラを吹いて、仮想通貨だの株だのの役に立たない情報を売りつける人々。そして売りつけて得た金をあたかも株で儲けたみたいに見せて、またいらん情報を売りつける。そしてその金でまた…金返せコノヤロー。

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