最近のネット 面白くないというよりは分かりたくないのだと気付いた

最近のネット 配信と広告 社会

 目まぐるしい世の中。 

 ネット上を文字が行ったり来たり。

 思わず目をこする。

 インターネットを場所と言っていいのなら、僕は長年そこに居続けた。

 起きては、パソコンの電源を入れ、目の前に座る。

 目の前のモニターに表示される情報をひたすら頭に流し込む。

 それは最新であればあるほどいいし、他人が知らなければ知らないほど価値があるようにみえた。

 そんな自分を一言で言えば、

 タイピングが速くてズル賢いやつ。

 やたらと詳しいことが得意げで、時代を知っている気になっている。

 「USBを知らない? はん!」「初心者はUSBをぶっこ抜き、中級者は安全な取り外し、上級者はなんやかんやでぶっこ抜く」

 知ったかぶりでインターネットという場所のヌシを気取っていた、

 と最近思うようになった。

 なぜこうやって省みるようになったのかと言うと、

 ネットを見ていて、僕の頭が

 「?」

 となる場面が増えてきたからだ。

 簡単なマジックを見た犬のように

 「?」

 ただただ「?」が浮かぶ。

 つまり、「自分って置いて行かれてるんだな」と感じている。

 例えばyoutube。

 ユーザーが収益を得られるようになり、youtuberと呼ばれる人たちが現れた。

 動画の前後に広告が流れたり、トップページはクリックしたくなるように誇張された大文字煽りのサムネイルで埋まっている。

 これにはだいぶ慣れてきた。

 いまだに慣れないのはライブ配信。

 そもそもyoutubeのライブ配信サービス自体、いつから始まったんだっけ感が否めない(サービス開始は2011年4月8日らしい)。

 そんなものだから、好きな配信を観ている最中でも、

 「え、youtubeでライブ配信? なんで?」という10年前の自分がまだ心の中にいて、心底楽しむのを邪魔してくる。

 この感覚が分かる人は少ないかもしれない。

 ROMっているというのもあるけど、しっかり観ているのにどこか参加できていないような置いて行かれる感覚。

 それに加えて投げ銭という視聴者が配信者にお金を寄付できる機能。

 いつの間にか加えられた灰色の$マークのボタンは今や配信を盛り上げる要素の1つになっている。

 この機能がますます僕を配信から遠のかせる。

 僕は投げ銭が有効な配信を観ていると、気持ちが盛り上がるというよりはヒヤヒヤする。

 なぜなら、配信というのは本来配信者が好きにやっているものであるから、コメントを拾うかは配信者次第であったけど、お金が介在した場合、そこに義務が生まれるからだ。

 つまりは、「せっかくお金払ったのに読まれなかったら悲しいだろうな」とか「投げ銭とその期待に応えなきゃいけないというプレッシャーは大変だろうな」と色々感じてしまう。

 別に自分の財布から抜かれているわけでも、入ってくるわけでもないのに、配信の内容そっちのけで、なぜか気になる。

 また、アダルト系ライブチャットに詳しい人は分かるかもしれないけど、

 投げ銭というのは、配信を過激な方向に加速させる。

 お金には人の服をも脱がす魔力があるわけで、それに人が踊らされるのは、同じ人として見たくはない。

 確かに人が踊るのは面白いし、踊らされているのはもっと面白い。

 しかし、ネットの奥底には利他的な人情味があるという黎明期の伝説を信じていたい自分が「面白くない」と言いたがる。

 あくまでも、自分がヌシだと言い張るように。

 僕は反省した。

 「勝手にやってろ」と言わずに、面白くないのではなく、分からないだけ、と改める。

 そして分からないなら分かればいいじゃない、とアントワネット風に考える。

 手始めにtwitchを開く。twitchとはamazonが運営するゲーム特化型のライブ配信サイトだ。

 もし投げ銭をするのなら、ゲーム好きとしてゲームコミュニティの発展に貢献したいと考えたのだ。

 twitchではゲームタイトルごとに配信を検索することができる。

 僕は最近発売されたらしい三国志のゲームの配信を観ることにした(昔、三国志演義好きの小学生だった)。パッと目に入ったものをクリック。

 配信者はアメリカ人の男性。アメリカ人らしい大柄な体形で、びっしりとひげが生えている。

 値段が高そうなゲーミングチェアに座り黙々と三国志をプレイしている。

 しばらく様子を見てもアメリカ人はまったく喋らない。

 その理由は直ぐに分かった。

 視聴者数に目をやる。

 示されている数字は1。

 1=僕。僕はたった1人の視聴者なのだった。

 静かなアメリカ人が中国大陸を侵略し、日本人がそれを観るという不思議なマンツーマンが続いた。

 その間、僕は考えた。

 これは「面白くない」のか、それとも、「分からないだけ」なのか。

 そんなお題を浮かべながら、配信をよくよく見る。

 そして気づく。

 このアメリカ人は中国語で遊んでいる。

 彼は呉のリーダー、孫策として部下に軽快に指示を出していた。中国語で。

 そして部下たちも中国語でなにやら作戦を提案してくる。彼は名君の決断力で次々とそれを処理する。

 その恐るべきスピード、ことごとく理解しているように見える。全く読んでいないようにも見える。

 彼は中国語を理解しているのか。

 分からない。

 しばらくすると、そのアメリカ人は視聴者、つまり僕の存在に気が付く。

 そしてなにやらゴニョニョ喋りだした。

 しかし、僕は家にひきこもっている日本人。

 彼が話しているのは英語なのか、それとも中国語なのか。

 やっぱり分からない……。

 分かっていることはいくつかある。

 この1(=僕)という数字が0になってしまうと、このアメリカ人はちょっぴり悲しくなる。

 しょんぼりする姿を想像すると、抜けづらい。

 投げ銭をしたらきっと喜ぶ。

 でも、僕がそれを観て満足感を得るのを考えると、嫌な感じがする。

 なぜなら、たとえたった100円、そこに悪意はなく、それが誰も傷つけないにしても、

 このアメリカ人の服を脱がし、踊る義務を着せることになるから。

 結局、僕は投げ銭どころか、コメントもせず、ただひたすら1という数字として配信を見守った。

 ストリーミング文化に慣れるのには期間がかかりそうだ。

 でも、いつか好きな配信者を応援できればいいなと思う。

広告とスマホ そして偽善 最近のネットと人間の欲求

 まとめサイトにトレンドブログ、youtuber、辛辣で記号的な言葉、放火的炎上マーケティング。

 「分からない」と言いつつも、正直なんとなく分かっている。

 まとめサイトやトレンドブログが検索上位なのは、googleが悪いのではなく、なんやかんやで人々がそれを求めているから。

 共感したくて同調する。

 人が笑うよりも燃える方が好き。

 自分に都合のいいことを信じたい。

 まず欲求があって、それに応じてシステムができる。

 例えば、声優がどんな人なのか知りたいという欲求が、その人たちの露出する機会を増やしたのと同じ。

 人を踊らせるシステムよりも、人を踊らしたいという人間の欲求に要因がある。

 そして生まれながらある欲求なんていうのは、大手術でもしない限り無くならない。

 だから欲求があること自体は自然なことで何も悪いことじゃない。

 人の不幸を喜ぶ気持ちでさえ、そうだと思う。

 アメリカ人の配信を観ていた時、僕はそれが全くの過疎配信であることを憐れんだり、自分が唯一の視聴者であることをまるで優位に感じなかったのだろうか。

 これは偽善。

 ”最近のネット”の変化の原因として、広告とスマホがよく挙げられる。

 それは完全にその通りだ。

 ここに偽善を付け足すべきだと思う。

 これは僕がただ投げ銭や優越感、そういったものに敏感過ぎるだけなのかもしれないけど。

 仮に、もし大きな偽善があのアメリカ人に降りかかったとしたら、例えば1万円で見世物にされるとか。

 僕はすごく嫌な気持ちになるだろうけど、同時に見てみたいと思うに違いない。

 そして自分はそんな人間じゃないという反抗心が、”面白くない”、”つまらない”と言わせる。

 誰にとっても他人事ではない話。

 でも他人事にするのが答えなのかもしれない。

 前向きな話。

 インターネットには昔から変わらない面白さがある。

 それは知らない誰かとつながる喜び。

 これは昔も今も変わらない。

 昔は「アングラ」でつながり、今は「いいね!」でつながっている。

 僕は地球の裏にいる人間がゲームをしているのを覗いたり、

 今まさにしてもらっているように、誰か分からない人間に文章を読んでもらったりする。

 僕はそれでつながっている気になっている。

 つながりなんていうのはありがちなテーマで、面と向かって言われれば正直ダサい。

 ただ、初めてパソコンに触れたときの「なんかとんでもないところにこのマシンはつながっている!」と多くの人が衝撃を受けたと思う。
 
 その”なんかとんでもないところ”には今でもつながっていると僕は信じている。
 

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