【躁鬱】ニートと全能感は切っても切れない関係「明日から本気出す」

全能感の正体 生活
全能感の正体

 僕は、ニートになってからというものの、急に日本全国一周の旅を計画したり、街に出て女性100人ナンパしようと思いたったりするようになった。

 もちろん、それは一度も実行されることなく想像だけに終わった。そもそも僕は家の外にすら出ることはない。

 これはおそらく「全能感」の仕業だろう。

 全能感とは、自分が何でもできるという感覚のことだ。昨日まで死にたくなるほど憂鬱だったのに、翌朝起きると急に空も飛べるような自由な感覚を覚えたりする。

 こう書くと大げさに聞こえるかもしれない。しかし、実際そのような気分になると、何もかも開いたような気分になる。例え自分がその状態になっているだけだと分かっていても。

 いい気分になるのは良いことだけど、それが持続せず、谷がやってくるのが問題である。
 
 また、他にも問題がある。それはこの全能感が病気に関連したものだという解釈が世に広まっていることである。

 たしかに頭のいい精神科医や学者が関係あると言っている。

 ただ本当に精神科医や学者がなんでもかんでも病気だと分類して、お金を稼いだり、自分が医学に功績を残したいだけという可能性は万が一もないのだろうか。

 僕は案外この全能感というのは単純な仕組みで成り立っていると思う。今回はそのことをまとめてみた。

全能感の正体

 まず全能感を得やすいニートの生活を例にしてみる。

 基本的にニートになると話し相手はいなくなる。

 そのためにニートは自然と自分の心との対話が多くなる。
 
 対話と言っても、それは非常に無意識に近い。言葉に出すわけでもないし、自意識は、自分の現状とか、将来のことを考えたくないからだ。

 そうやって心を無意識に掘り返してるときに、常に心のどこかで考えていることがある。

 それは、「自分はどこまでやれるのか」ということである。

 そしてあくまで、これは無意識での話である。

 大抵の人は、「自分はいざとなれば何でもできる」という全能感が最初に現れると考えているけど、実は前段階として「自分はどこまでやれるのか」という考えが無意識のうちにあるのである。

 つまり、ちゃんと「自分はどこまでやれるか」という自問自答をしているわけで、別に「自分はいざとなれば何でもできる」という人はそこまで高慢なわけではない。単純に前段階の自問自答に気が付いていないだけだ。

 問題はその「自分はいざとなれば何でもできる」という全能感ではなく、「自分がどこまでやれるのか」とまず最初に考えていることを忘れていることだ。

 仮に前段階で(50)できると考えたとする。すると、自意識では「自分はいざとなれば(50の範囲で)なんでもできる」となる。

 しかし前段階を忘れて場合では、「自分はいざとなれば何でも(??)できる」という全能感だけが残ってしまう。

 こうなると、行動にまでも悪影響がおこる。

 無意識で「どこまでやれるか」考えていた場合は、”何でも”が限られていると理解できるために、その範囲で行動できる。

 対して「どこまでやれるか」を忘れた場合は、自分は何かも出来ないと落ち込んだり、そのくせ翌日にはそれこそ空も飛べるような気分になる。

 そして初日に腕立て百回してしまうような行き過ぎた行動をしたり、かと思えば一日中寝たり明日の自分に全て託してしまったりする。

 このように根拠のない全能感は、自分がどこまでやれるのかを把握しきれていないために起こる。そして把握しきれていない期間が長くなればなるほど、把握するのがこわくなる。

 そして、実力が知れるのがこわいために、何でもかんでも回避するくせがついたり、どうせ自分は何もできないと自己嫌悪におちいるのだ。

 この状態が続き、心が極限まで傷つくと、心がバネのようになっていき、ひどく落ち込んだり、気分が以上に良くなったりするのを繰り返す。ある意味、気分が良くなるのは、心がしぼんでいってしまうのを防ぐための自衛的な行動なのだ。

全能感は病気なのか?

 精神科医や学者はこの一連の心理を”病気”と呼んでいる。たしかに生活に支障がでるのだからそういってもいいかもしれない。

 しかし、一つ大きく抜けている事柄がある。非常に大切なことだ。

 それは、「病気です」という言葉の冠が載せられることによって、この心理現象は初めて病気として完成するということである。

 これは病気云々の前にまず心理的な話だ。つまり、ウイルスや菌とは違って、存在があやふやなものである。だから、写真や動画ではなく、誰かの「病気です」という言葉によって初めて形になる。

 だからその言葉を聞いた者は、自分のおかしなこと考え方が、変な話、「病気だから自分はおかしくなかったんだ」という安心と「病気だから自分はどこか悪い」という不安を同時に抱くことになる。

 この安心と不安は、この心理現象の気分が良くなったり悪くなったりするという仕組みを強くしてしまう。「病気だから自分はおかしくなかったんだ」という安心が気分を良くさせ、「病気だから自分はどこか悪い」という不安がひどく落ち込ませる。

 「病気です」と言う人は自分の専門分野であるくせに、このことをまるで考えないのだろうか。そこに病気があれば儲かるとか、学者特有の何でもかんでも分類したくなる癖を関係ないのだろうか。

最後に

 陰謀論者の啓発本みたいな内容になってしまったけど、別に僕は啓発本の著者みたく「やれ」と言いたいわけじゃない。そもそも、僕自身何もしていないわけで、今回の方法論は口先だけだと言われても仕方ない。

 何が言いたかったかと言うと、全能感は躁病や自己愛性パーソナリティ障害の構成要素だと言われるけども、必ずそうとは限らず、ただ単純に無意識で「自分がどこまでやれるか」を考える癖が薄れているだけだということもあるということだ。

 そしてニートこそこの全能感の仕組みを理解できると思う。なぜなら疑い深い人種だからだ。あとは他人がどう思うかではなく、自分がどう思うか、自分はなにができるのかを考えればいいのだと思う。

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