大人と子供の違い、境界線はどこにある?

子供と大人の境界線 分類
子供と大人の境界線

 この問題に関して僕はいわゆる専門家のようなものだ。なぜならニートだからだ。国境に住む貧困家庭みたいに、この境界線を行き来しているような気がする。

 確かに、働いていないから経済的に自立していない、だから大きな子供と言ってもいいし、逆に普通に20歳を超え、子供の生えないようなひげも生えているので大人と言ってもいい。

 僕としてはどちらか一方にこだわりはない。人がニートを子供と言うのならそれで構わないと思う。

 しかしながら、容易に答えられない子供の質問のように、この問題はそう簡単には答えが出ないし、だからといって放っておくのももったいないような気がする。

 だから今回は、大人と子供の違い、境界線についていくつか例を挙げて考えてみたいと思う。

普通に年齢

 もっともポピュラーな答えがこれだろう。お酒やタバコが吸える20歳、選挙権が与えられる18歳。この年齢になったら大人という考えだ。

 年齢という境界線は、後に述べる精神的年齢と比べられ、「中身が成長していなきゃ意味がない」という風に軽んじられがちだけども、誰しもがはっきりしている分、間違いがないという意味では良い境界線だと思う。

 現代では、人に認められる機会は少ない。そんな中で誰しもにはっきりしている20歳という境界線は、誰しもに社会に認められる機会を与えている。だからどんなに最悪な20歳を迎えたとしても、少しは喜んでもいいだろうと思う。

 僕は成人式に行ってないけど、行った人はこの20歳で大人になったという喜びを感じたのではないだろうか。

 確かに20歳なんていうのは、半世紀も生きているような人からしたら、まだまだ子供かもしれない。

 例えば、どや顔で年齢確認して、人前で堂々と吸ったり飲んだりしがちだ。チューハイなんてのはジュース、やっぱりビールっしょ、と言ったり、逆にカルーアミルク頼んじゃうけどね、みたいなこともする。

 しかし、初級だとしても、入門している以上、立派な大人だ。それはただ若いと言うだけで、子供と言うわけじゃない。

 そして、この立派な大人である、ということを理解しなければならないのは、半世紀生きたおじさんではなく、当の本人、20歳になった人々やこれからなる人々である。

 例えば、大人になると車を運転でき、お酒も飲むことができるけど、これを同時にするやつがいる。つまり飲酒運転だ。仲間とつるんで、お酒を片手に自分の好きなように車を走らせて事故る。大抵、無免許だったり、未成年だったり、無関係の人を巻き込んだりする。

 こういうことは大人と子供の違いを勘違いしているために起こる。心の中に大人への強い憧れがある分、社会の決めた大人の基準に強く反抗する。そのくせ、大人というのが年齢ではなく、行動の選択で決まるというのを理解していない。

 こういった勘違いは、周りの大人が”大人とは何か“という疑問を解決してあげるどころか、疑問を深めてしまうことから起こる。

 そうして「大人のくせに」とか「大人は何もわかってない」というすれ違いが始まるのである。

 だから、大人も子供も、まずはこの実年齢の境界線について自分なりに考えるべきだと思う。

経済的に自立しているかどうか

 正直、この話はあまりしたくない。

 なぜなら、ニートだからだ。この想定だと僕は三歳児並みに子供だ。

 だから、この項目はちゃっちゃと終わらせたいと思う。

 まず、ライオンなんかの野生動物と同じで、成熟した生き物は基本自分で自分の食べ物を探す。だからその点人間も自分で自分の飯を食うということが大人の証なのである。

 そのため、経済的に自立しているかどうかというのは、意外と原始的な考えだ。だから、古い考えだとして捨ててもいいだろうし、原点だからこそ尊重するべきだと言ってもいいと思う。

 また基本的に、社会では働いている人は偉い。国民の義務であるし。だからと言って、僕は憲法違反の存在ではないと思うけども。ともかく、世間における大人と子供の違いにおいての風潮の主流であることに間違いない。

精神的に大人かどうか

 つまり精神年齢のことだ。大人になってもいつまでも子供な人だ、という言葉がよく言われるように、人間が大人か子供かの判断によく使われる。 これにはいい意味でつかわれる場合と悪い意味でつかわれる場合がある。

 前者は子供心を忘れない、純粋で好奇心にあふれ、いやらしくない、という人。

 後者は、精神的に未熟で、弱い者いじめをしたり、感情的な行動ばかりしたり、人に対するおもいやりがない、という人。

 前者は人に好かれ、後者は嫌われる。


 これは、点数で決まるわけでもなく、はっきりとしていない。あの人は大人だね、子供だね、と評価されることはあるけども、それはあくまでも主観的だ。

 はっきりしていないだけに、時折問題も起きる。俺はお前よりいくつも大人だから敬え、とか、年下のくせに生意気だな、という人は精神的に大人かどうかの境界線についての理解が足らないし、実際、本人は精神的に未熟だ。

知識

 最も子供と大人で差があるのは、体格であるけど、境界線付近においては知識である

 これは、計算力や論理力もそうだし、人生のtips的な経験則も含まれる。

 子供がなんでも質問して、知識を吸収しようとするのは、大人になろうとしているためであり、だから、子供特有の「○○はなんで○○なの?」という質問にどれほど回答が与えられたかによって、その子供の人生は変わってくる。

 この知識の境界線に関して最も大きな勘違いは、なんでもかんでも知識であれば、詰め込んでしまえばいい、というものである。

 知識は、役に立ってなんぼだ。役に立たない知識は意味がない。

 これは学校教育にも当てはまる。

 大抵の子供は、まあまあ成長したら学校の勉強なんて意味があるのか、という疑問を持つ。この疑問を解決できれば、知識の境界線を越えて大人になったと言ってもいいんじゃないだろうか。

 答えは人によるだろう。役に立つという人もいるだろうし、役に立たないと言う人もいる。

 でも大抵の人が学校教育を振り返る時、まずこう言うだろう。「学校で学んだことのほとんどを忘れた

 寛容な大人はこう言う。「学校なんて別に行かなくても生きていける

 人生の落ち着いた人はこう言う。「もっと勉強しておけばよかった。過去にもどれたら勉強する(こういう人はたぶん過去に戻っても勉強しない)」

 本当に人それぞれだ。その時と場所、状況による。

 いじめられているのを我慢してまで行く必要はない場所だし、自分のためになる場所でもある。

 とにかく役に立つかどうかだけを考えればいいと思う。

思いやり

 個人的にこの思いやりがあるかどうかが一番大人かどうかを決める要素だと思う。

 だから小学生でも思いやりのあるやつがいたらそいつはもう大人よりも大人と言っていい。

 引きこもりの僕が言うのもおかしいけど、人はどうやったって一人では生きていけない。どう頑張っても誰かと関係を持たなければならない。

 だから足が速いとか、頭がいいとか、年齢が高いということよりも、人を思いやれるかが大事になってくる。

  別に人を思いやったからと言って、思いやりが返ってくるわけではない。なぜなら、”思いやりが返ってくる”と考えている時点で、見返りを考えているわけで、そんなものは思いやりとは言えないからだ。

 だから、大人は損得で物事を考える。そうなると、思いやりではなく、損得勘定をするのが大人というように思えるかもしれないけど、きっとそうじゃない。

 僕が昔いじめられていた時、たった一人だけ助けてくれた子がいた。僕はその子の顔を見て、この人は大人だなあと思った。

 どうして顔を見て大人だと思ったか。それは良いことをしたという顔じゃなかったからだ。道徳の時間で習ったことや親の教えに従った顔ではなかった。優しさだけの顔だった。

 それ以来、僕は本当の大人とは思いやりなんだと思っている。

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